晨朝勤行と凡夫のたわごと
今年も、お盆の3日間晨朝勤行にお寺へ行って来ました。
思い出したように時々にしかお寺に行かないが、晨朝勤行は毎年顔を出すのは何かあるのですかと聞かれたことがあります。
今回の晨朝勤行も住職さんの法話がありました。一日目は「人生そのものの問い」二日目は「凡夫」三日目は「真実の教え」についてでありました。日々の自分の姿を見ていると、法話の凡夫そのもので、反省と後悔を繰り返しています。
三日目の法話で「求不得苦」のお話しを聞き、仏教のある教えを聞いた事を思い出しました。
〈これ〉があるとき 〈これ〉がある
〈これ〉がないとき 〈これ〉がない
今の私の場合、がある・がないの〈これ〉を〈反省・後悔〉と置き換えてみると、頭の〈これ〉は何に置き換えたらよいのかと考えたことがありましたが、自分なりの答えを見いだすことなく今に至っていることを思い法話を聞いていました。
日々心が乱れた状況の多い生活の中、少しでも穏やかな気持ちで一日を過ごすすべはないかと考えた時、毎朝「正信偈」を唱えて一日を始めれば少しは違うのではと考えた事がありました。
しかし、よい考えかもしれないが、それは大変困難で、私には不可能な事であることはすぐ理解することができ諦めました。凡夫ゆえ諦めたとたんに、そのような事を考えたことも忘れ、前と変わらぬ生活を送っていました。
それでも、時々〈これ〉を思い出すと同時に心を穏やかに過ごすすべはないかと考えることがありました。
そんなとき、お盆の晨朝勤行と出会い三日間なら私にでもできるのではと、晨朝勤行をお盆の三日間に集約する言い訳みたいな妥協案を自分に言い聞かせて通い始め今日に至っています。
動機や経過がなんであれ、三日間無心に勤めながら、少しでも縁起等について考えて見るのは良い事だと自分に都合のよい“たわごと”を呟きながら今年もお勤めさせていただきました。
南無阿弥陀仏
釋 縁 顕(髙間 満昭)