特集 親鸞聖人(5回連載)第1回 誕生と出家 鈴木彰

投稿日:2007年11月1日

はじめに

親鸞聖人750回大遠忌法要が、平成23(2011)年から厳修されます。大遠忌は念佛再興の動機です。「本願を信じ(信)、念佛をもうさば(行)、佛になる(証)」という宗祖のみ教えを伝えていきたいものです。
人間砂漠を旅する私たちの確かな先達=案内人である宗祖の波乱に富んだ生涯を点描して、そのご苦労をしのぶと共に、人間の生き方を

  1. 聖人の誕生と出家(このページ)
  2. 専修念佛への帰入
  3. 弾圧と流罪
  4. 東国教化
  5. 帰洛と晩年

という、以上5回の連載によって、学ばせていただきたいと思います。

親鸞聖人とのその時代

宗祖親鸞聖人は承安3(1173)年にご誕生、弘長2(1262)年のご往生ですから、90年の生涯をおくられたことになります。それは平家政権の確立と崩壊、鎌倉幕府の成立といった武家台頭の時期にあたり、まさに社会の激動期でもありました。

いっぽう我が国は、永承7(1052)年から末法の世に入ったことになっていました。釈迦涅槃の後、世の中が正法・像法各1000年を経て末法の時代となり、佛教は教えだけが残り、人がいかに修行して悟りを得ようとしても、とても不可能な時代だというのです。頻発する戦乱、凶作、疫病、天変地異と、社会はますます混迷の度を深め、人びとは生きる方向を見失っていきました。

この末法の世で救われていく教えを模索し、それぞれの教義を確立したのが、鎌倉佛教といわれる浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、日蓮宗(日蓮)などです。

なかでも宗祖親鸞聖人は、人間の姿を直視され、浄土真宗の核心である「絶対他力」(注1)や、「信心正因」(注2)「悪人正機」(注3)などの教えを導き出されたのであります。

親鸞聖人の誕生と出家

親鸞聖人  鏡御影(かがみのごえい)

宗祖親鸞聖人は京都日野の里に、日野有範の子としてお生まれになりましたが、沢山の著作のなかでも、自らのことを語ることはありませんでした。したがって、いつお生まれになられたかということは、往生の年次と年齢からの逆算で知るよりほかにありません。また、門弟たちに写し与えた聖教には、書写年月とその折りの宗祖自身の年齢が記されておりますので、承安3年4月1日(現行暦5月21日)のお生まれであることが分かるのであります。

不遇な貴族であったという父有範でありますが、生母吉光女 についても、宗祖が8歳になられるときに死別なされたと伝えられておりますが、史実にはあきらかではありません。史実的には今なおはっきりしないことも多くありますが、私たちにとって大切なことは、その人が、どこで、どんな人の子として生まれたかというよりも、何のために、どのような道を歩まれた人であったのかと言うことだと思います。

9歳の幼い宗祖が得度 した養和元(1181)年というのは、鴨長明が『方丈記』に京都の飢饉を記した年であります。

この年、叔父範綱にともなわれ、東山の青蓮院をたずね、慈円僧正の坊舎で得度の式を受けられ、名前を範宴 とあらためられました。しかし、何故に出家なされたのか、その動機については明らかではありません。

得度というのは、在家 の人が髪を剃って出家となる儀式でありますが、有名な伝説があります。その日はすでに夜が遅かったので、慈円僧正が「明日にしたら」という言葉に、幼い宗祖は次のような歌を詠み、その夜のうちに剃髪なされたといわれます。

明日ありとおもう心のあだ桜夜半にあらしの吹かぬもかは

「わずか9歳の少年が…」と言うひともおりますが、沢山の人の中には、たとえ少年であっても、感受性の強い人もおります。この少年も人一倍感受性が強く、深く人生を見つめる眼をもっていた人だと思います。

出家の動機を単純に「これ」と指摘することは困難ですが、血で血を洗う人間のみにくさ、天災地変の多かったなかで、有形無形、内的外的のさまざまな要因があったことと思われます。

「人の世はなぜこのようであるのか。人はこの世をいかに生くべきであるか。人間に生まれてきたことのほんとうの意味はどこにあるのか。人はこの世をいかに生くべきであるか。人間に生まれてきたことのほんとうの意味はどこにあるのか」という、人間それ自体の存在の意義をたずねることにあったことはまちがいないと思います。

宗祖は出家すると比叡山に登り、ここで少年・青年期の20年間をすごされたのであります。

続く
◎参考資料等は全5回終了後に掲載させていただきます。

注記

  (注1) 阿弥陀佛の本願のはたらきをさし、信心を得ること、種々の行いも、すべて佛の願力によるとする。他人の力と解するのは誤りで、いわゆる自力を支え、自力の根源をなす超越的な力を意味します。
  (注2) 称名を正因とする邪説に対し、浄土に往生する正しい因は信心であるということで、他力信心 における根本義。
  (注3) 阿弥陀佛の本願は、善人(善行をつむ人)よりも悪人(煩悩具足の人)の救済にあり、悪人に対して救いの手をさしのべることこそ、阿弥陀佛の意志であるとする。