特集 親鸞聖人(5回連載)第4回 東国の教化 鈴木彰

投稿日:2009年3月1日

健保2(1214)年の頃、聖人は流罪の地を離れ、妻子と共に常陸国笠間郡稲田郷(現茨城県笠間市)をめざして旅立ちました。ときに聖人42歳でありました。

移住の動機や移住先に常陸国を選ばれた理由は、何だったのだろうか。いろいろな説がありますが、東国への専修念佛の布教教化活動と共に、『教行信証』の述作にあったことだけは確かだと思います。

稲田郷のある笠間盆地は、低いならだかな起伏の山々に囲まれているので、地勢が京都を思わせると言われます。

稲田郷での聖人の活動の一部ではありますが、『御絵伝』(注1)は次のように記しております。「笠間郡稲田郷といふところに隠居し給ふ。幽栖を占むといえども道俗跡をたづね、蓬戸を閉づといえども貴賤ちまたに溢る」と。僧侶や在俗の篤信者が、稲田へ次々と聖人のあとを慕って訪れて来たという。草庵の近辺には階層の差別なく、多くの人々が集まり、聖人が姿をみせ、説法をしてくれるのを待ったというのです。

東国には、次のような伝承もあります。この地方の山伏でありました弁円が、聖人を佛法の怨敵として憎み、隙あらば殺害しようと狙っておりました。

聖人はたびたび板敷山を経て鹿島神宮に往復しておりましたので、この山で待ち伏せし殺害しょうとしたのであります。しかし、ことごとく出会うことができず、とうとう聖人の住む草庵に乗り込んでゆきました。
少しのためらいもなく、無造作に会って、耳を傾ける聖人の言葉に多弁さはなく、特にさわやかさはなくとも、それでも弁円の心は、少しずつ動かされてゆきました。
そして、聖人の心の底からの言葉に、殺害しようとする心も失せて、弁円はその場で弓矢を折り、刀や杖を捨てて、名を明法と改め聖人の門弟となったというのです。

 

(注2)

また、聖人は足繁く東国の各地に出向いているのですが、なかでも奇異とさえ思えるほど、たびたび鹿島神宮へ通っているのです。稲田から鹿島への行程は、ほぼ80キロほどあり現在でもこの地域一帯には、聖人にかかわる史実・伝承ない交ぜて多くのことが語り継がれております。
鹿島神宮収蔵庫は、中国からもたらされた文物、書籍の宝庫であり、とりわけ宋版の『一切経』(注3)が奉納されていたと言うことで納得がいくと思います。

『一切経』は佛教教典全集とも言うべきものであり、『教行信証』著述の構想をすすめるうえでも、執筆にあたり適切な引文を選ぶうえでも、最新版のこの教典全集と、あまたの典籍が必要だったのではと思われます。『教行信証』は、この地で書きはじめられ、帰洛の後に完成されたと言われます。

注記

  (注1) 親鸞聖人のご生涯を描き、報恩講中に内陣余間に掛けられ、『御伝鈔』が拝読されます。
  (注2) 板敷山弁円済慶の図が、 当寺本堂の正面入り口付近に 掲げられております。
  (注3) 〈一切の経典〉の意味で、経・律・論はもとより、その他の佛教文献を含めた佛典の総称。

続く
◎参考資料等は全5回終了後に掲載させていただきます。