2015(平成27)年7月3日、広島平和記念公園内・原爆供養塔前で営まれた「平和を願う法要」の後、ご門主がお言葉を述べられました。ここに謹んで掲載させていただきます。
浄土真宗本願寺派門主
大谷光淳
ただ今、皆さまと共にお勤めいたしました「平和を願う法要」にあたり、第2次世界大戦で犠牲になられたすべての方々に対し、衷心より追悼の意を表します。
70年前の8月6日、たった一発の爆弾によって、一瞬にして美しい広島の街が破壊され、多くのかけがえのない命が失われました。また、原子爆弾のもたらした惨禍(さんか)は、放射能の影響として、また痛ましい記憶として、今も多くの方々を苦しめ続けています。このことを思うとき、あらためて人間の愚かさ、戦争の悲惨さ、原子爆弾の非道さを感じずにはいられません。
私は、皆さまと共に、戦後70年を迎える広島の地で、平和への願いを新たにすることに深い意義を感じています。
第2次世界大戦が終わって70年が経とうとしています。しかし人類が経験したこともなかった世界規模での争いが起こったあと、70年という歳月が、争いがもたらした深い悲しみや痛みを和らげることができたでしょうか。そして、私たちはそこから平和への願いと、学びをどれだけ深めることができたでしょうか。
戦争の当時を生きられた方々が少なくなってゆくなかで、戦争がもたらした痛みの記憶は遠いものとなり、風化し忘れられつつあります。また先の大戦において、本願寺教団が戦争の遂行に協力したことも、決して忘れてはなりません。こうした記憶の風化に対し、平和を語り継ぐことが、戦後70年の今を生きる私たちに課せられた最大の責務です。よりよい未来を創造するためには、仏智に教え導かれ、争いの現実に向きあうことが基本でありましょう。
そもそも、あらゆる争いの根本には、自己を正当とし、反対するものを不当とする人間の自己中心的な在り方が根深くあります。宗祖親鸞聖人は、「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅(かたく)無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなし」と、人間世界の愚かさを鋭く指摘されています。私たちが互いに正義を振りかざし、主張しようとも、それはいずれも煩悩に基づいた思いであり、阿弥陀如来の真実のはたらきの前では打ち崩されてゆくよりほかはないという事でありましょう。それはまた、縁によって、どのような非道な行いもしかねないという、私たち人間の愚かさに対する警告でもあります。
いかなる争いにおいても悲しみの涙をともなうことを、私たちは決して忘れてはなりません。受けがたい人の身を受け、同じ世界に生まれ、同じ時間を生きている私たちが、お互いを認めることができず、どうしてこの上、傷つけ合わねばならないのでしょうか。一つひとつの命に等しくかけられている如来の願いがあることに気付かされるとき、その願いのもとに、互いが互いを大切にし、敬い合える社会が生まれてくるのではないでしょうか。少なくともお念仏をいただく私たちは、地上世界のあらゆる人びとが安穏のうちに生きることができる社会の実現のために、最大限の努力を惜しんではなりません。
戦後70年という歳月を、戦争の悲しみや痛みを忘れるためのものにしてはなりません。そして戦後70年というこの年が、異なる価値観を互いに認め合い、共存できる社会の実現のためにあることを、世界中の人びとが再認識する機会となるよう、願ってやみません。