家を離れた学生生活の頃からだと思いますが、久しぶりに古里の家に戻り、佛壇に掌を合わせれば、自分の家に帰ってきたという実感が湧いてきた思い出があります。
しかし、佛壇の前に坐ったのは、けして自発的な行為などではなく、半ば強制的な祖母の誘導があったればこそなのです。
いま、往時を振り返って祖母の心を思うとき、泣きたいほどの懐かしさと、有難さが心を満たしてゆくものです。
そして、その記憶の先に、佛壇の前の母の姿を忘れることはありません。娘二人に先立たれ深い悲しみの現実を、母はどう受け止めていたのであろうか。
佛様との対話ができたのであろうか。そんなことを語り合うには、余りにも若い私であり、遠くから見つめるだけでありました。
今回は佛壇(佛教)と神棚(神道)について考えてみたいと思います。
こんな歌を最近雑誌で読みました。「灯明をか細く点す神棚を視線の先に仏間に坐る」訪れた家の佛間に坐り、ふと隣の部屋の高い所に目をやると、白木造りの神棚に灯明が点されていたという意味の歌だと思います。
真宗の家庭内風景ではないと思いますが、戦前の佛教徒の家庭であれば、どこでも見られた普通の情景でありました。かつて北関東の農村などでは、佛教宗派に関係なく、佛壇と神棚のほかに、小さな祠(屋敷神)が、敷地の一角などに建てられていたものです。
そもそも、日本人固有の宗教は、祖先崇拝であり霊魂信仰でありました。そんな風土に佛教の渡来(六世紀初めの頃)があり、幾度かの衝突や摩擦があり、徐々に日本人の宗教意識を変化させていったものです。その変化の具体的なあらわれ方が、神佛習合の思想でありました。日本固有の神の信仰と佛教信仰とを折衷(両方のよい点を合わせ取り入れる)した考え方でありました。
奈良時代に始まるこの考え方は、平安時代に入ると本地垂迹説として説かれるようになっていくのです。日本の神々は佛が衆生救済(生きとし生きる一切の人や動植物を救う)のために姿を変えて現れたもので、神佛は同体であるという考え方です。例えば八幡様の本地は阿弥陀佛であるとか、熊野権現の本地は観音菩薩であるなどという考え方であります。ちなみに権現の権には、仮の意味があるそうです。かつては寺の境内に社があり、一軒の家に佛壇と神棚があっても、けして矛盾するものではないという考え方が、定着していったものです。
その後画期的な宗教の改革の時代を迎えるのは、鎌倉の世に入ってからのことです。親鸞聖人などによって、佛教は単なる学問や知識ではなく、生死出離(生死を離れた悟りの世界)の問題を自己自身の問題であるとして取り組み、佛教が本当に日本人のものになる、そんな輝かしい時代を迎えたわけです。
しかし、その後は佛教の土着化や俗信化が急速にすすみます。江戸時代の檀家制度や、明治に入ってからの廃佛毀釈(佛教排撃運動、各地で寺院や佛像の破壊や弾圧など)や、国家神道の強制などによって、日本人の宗教意識は大きく歪められていきました。
戦後、信教の自由の時代を迎えるわけですが、われわれ日本人の精神風土には、相変わらず「神佛習合」の残滓(のこりかす)を取り除けることができない一面があります。そのことが冒頭の歌に表現されているのではないかと思われます。
多神教(多くの神々を同時に崇拝する宗教)的世界で培われてきた、私たち日本人の宗教意識の根強さも事実でありますが、「弥陀一佛」の浄土真宗の私達の家には佛壇だけがあり、神棚は必要ありません。一神教(キリスト教やイスラム教のように、唯一の神的存在だけを認めて、これを信仰する宗教)では考えられない多神教のわが国の歴史の中から、私達が神棚を必要としない理由を確かめていきたいと思います。
お佛壇のあるくらし4 佛壇と神棚
投稿日:2015年3月1日