先日あるご門徒のお宅で「お仏壇は、ご本尊である阿弥陀如来を安置するところで、先祖をおまつりするためのものではありませんよ」とお話しましたら、こんな質問を受けました。
「これまで、お佛壇にはご先祖が入っておられるとばかり思い、ご先祖に感謝の念を込めて手を合わせていました。確かに阿弥陀様も大事ですが、ご先祖も大切に思っています。お佛壇が先祖をまつる所ではないとしたら、いったいご先祖はどこにおられるのですか?」と。
先祖思いの門徒さんなのですが、どうも阿弥陀様とご先祖を対立的に別々の存在として捉えてしまっているようです。
「先祖をまつる所ではない」と言ったのは、ご先祖を実体的に捉え、たとえば霊魂のようなものがお佛壇の中に入っていて、しかもその霊魂は生前の我執に基づく意志や感情を抱いたまま存在し、生きているものがそうしたご先祖の霊を畏敬し慰めるためにまつる・・・というのではないということです。そもそも、固定的な実体としての霊魂を否定するのが佛教なのです。
それでは、ご先祖はどうなったかというと、阿弥陀様のお浄土に還られ、阿弥陀様と同じ佛様になられたと味わうのです。
お浄土は本来、色も形もない真実そのものの世界であり、我々のはからいを超えた世界でありますが、それを何とか形に表そうとしたのがお佛壇の造りだと言われています。
したがってお佛壇では、ご先祖を拝むというよりは、ご先祖が還られたお浄土を偲び、ご先祖をお救いくださった阿弥陀如来のご本願のお心を味わさせていただくのです。
さらに、ご先祖の願いを聞くと、何も「自分に手を合わせてくれ」とは思っておられないでしょう。むしろ、「真実の親である如来様のご本願を信じ、力強い人生を歩んでくれ」と願われています。そうしたご先祖の願いを聞き、阿弥陀様に心から手を合わすことが、すなわちご先祖を敬い、感謝することになるのです。