廣如上人
寛政10年(1798)にご誕生されました。文政9年(1826)に本如上人ご往生のあとを承け28歳で本願寺の法灯をご継職されました。
上人はそれより45年間寺務を執られましたが、当時は幕末・維新期にあたり、天皇中心主義の神道・排仏論が推進され、佛法衰退の危機にありました。上人はその神道国教政策・廃佛政策の逆風のなか、近代教団の歩むべき道を模索されました。
また上人がご継職された当時の日本は、西洋の諸外国が開国を求めるなど、国際関係が緊張した状態にあり、また、幕府や諸藩は経済的にも貧窮しており、内外問わず混沌とした社会状況でありました。
当時の宗門の財政も貧窮しており、莫大な借財を抱えていました。このような状況より、上人は本願寺の財政改革に着手され、そのために大坂商人の石田敬起氏を起用し、本山においては倹約を励行し、門末においては信仰の繁盛を進められ、懇志募財のほか、現在の賦課金(ふかきん)にあたる三季冥加制度(さんきみょうがせいど)などを創設されました。
その結果、財政の回復に成果が見られましたが、借財の完済には明治10年(1877)頃までかかりました。
一方、上人は勤式に関して、それまで正信偈の節譜(唱読法)が十種類唱えられていたものを、真譜・墨譜・中拍子・草譜・舌々行の五種類に改訂されました。なお、正信偈の節譜はその後、第23代勝如上人の時、真譜・行譜・草譜の三種に改訂され、現在に至っています。上人は明治4年8月19日(旧暦)、73歳でご往生されました。
明如上人
嘉永3年(1850)、第20代廣如上人のご子息としてご誕生されました。
明治4年に廣如上人ご往生の後を承け、22歳で本願寺第21代の法灯をご継職されました。
当時の日本社会は明治政府により神道が国教として定められ、祭政一致の国家政策がなされた時代でありました。その明治政府の政策のもと、国民に対して尊皇愛国思想の教化(大教宣布)をするための機関として「大教院」が設置され、その教導職として政府は明如上人に「大教正」を任命しました。しかし上人は学僧島地黙雷(しまじもくらい)師らとともに本願寺教団の大教院離脱運動を展開しました。
その後、政府が政教分離の方針を取ったため、明治8年に大教院は廃止されました。
上人は近代社会への変動に対応した教団再編成を図り、宗門の一層の発展のため本願寺事務所を築地本願寺御坊に移すことを計画されました。
しかしこの問題は教団内のみならず、京都府知事まで巻き込んだ大騒動となり計画は中止となりました。また、明治14年(1881)帝国議会の開設より10年早く、日本初の選挙制による宗門運営の議会制度「集会」(=宗会)が開設されました。
また上人は、学校制度の改革、有望な若手僧侶の欧州派遣、海外開教、刑務教誨、軍隊布教、各種財団の設立など、新しい時代に対応した教団の発展に努められました。
上人のご在職は32年間におよびましたが、明治36年1月18日 54歳にて浄土へご往生されました。