明治8年、日本とロシアの間で樺太千島交換条約が締結され、樺太南部のアイヌ人108戸、841人が北海道に移住させられました。
紆余曲折のすえ対雁への農業移民として移されたのは明治9年のことでありました。
アイヌ移民の生活を混乱に陥れたのは、明治12年春以降、全国的に蔓延したコレラ等の伝染病でした。犠牲者数は319人となりました。当眞願寺の過去帳によれば、351人と記録されておりますが、これは伝染病以外の死亡者数も含まれていると思われます。この悲運に見舞われた人々の追悼法要は、開教間もない対江説教所(後の眞願寺)により執り行われました。
説教所開設に奔走した移民共救組合の上野正代表は、彼等の総墓碑を建立するため、明治20年8月9日、北海道御巡教中の本願寺門主明如上人に、追悼碑のご染筆の陳情をいたしました。また、この折には説教所の寺院への引き直しについても要請をいたしております。
明治22年に眞願寺と寺号公称された境内に、翌年
『乘佛本願生彼國(じようぶつほんがんしようひこく)』
の碑が建立されたのであります。この刻まれた七文字の出典は、善導大師の『往生礼讃』日没讃の「佛の本願に乗じて彼の国に生ぜん」にあります。
なお、碑の裏面には当時の西本願寺北海道出張所長安藤龍暁師の撰述した文が、佐久間慶太郎氏の書で次のように刻まれております。
逝者、如斯、夫樺太人之移住、於此地以来、長逝者三百数十名、嗚呼哀哉、夫生者必死普率雖広豈有一人免死者哉、況生命之危、花露風燈不啻茲共救社長上野正君、欲為前後死者、有縁無縁三界万霊、建碑以表追慕之意矣、会明治二十年八月、本願寺法主飛錫、於此地正君所願法主、法主即題乗仏本願生彼国之七文字与之、今年十一月龍暁巡遊之際、正君需記其因、由因書之碑、陰如此 明治二十三年十一月 本願寺北海道出張所長 安藤龍暁謹書 佐久間慶太郎拝書 |
その後、眞願寺は江別地区の現在地に移りましたが、この碑も同時に移設されました。
明治31年のことであります。
長い間、江別の地にあった碑でありましたが、明治37年の庫裏の改修を機に、アイヌの人々の埋葬の地である対雁に移設され現在に至っております。
なお、昭和54年からは欠かすことなく、毎年『対雁の碑』の前で、法要が行われております。