一語一味 『道』

 ある休日。何気なく外を散歩していると、見ず知らずの一人の男性とすれ違う。
 しばらくして、ふと、思う。私はこれまで一体何人の人とすれ違ってきたのだろう。
 同じ道の上を歩きながら、私は私の進行方向、彼は彼の進行方向へと進んでいく。
 見えている景色は互いに違うはずだ。じゃあ、私と同じ進行方向の人は?それもきっと、同じ道の上を歩きながら見えているものは違うのだろう。
 先日も又、家庭内での殺人事件がテレビで報道された。相次ぐ家庭内暴力、虐待、殺人。子供か、親か、はたまた祖父母か。いずれにしても、ひとつ屋根の下で起こる惨劇を、朝一番のニュースで観たくはないというのが本音である。何がきっかけで、何故そこまでやらねばならなかったのか。誰もがそう思うだろう。
 佛教は、私が佛に成る教えである。悟りへの道、と言えば聞こえは良いが、それだけではなんだか、私とは別世界の話しにも聞こえてくる。しかし、「六道」という世界があることを知る。
思い通りにならず、腹を立て、殺し合う地獄の道。あれも欲しい、これも欲しい、人の物さえも欲しくなる餓鬼の道。自分さえよけりゃ何をしても良い、他人のことは知らんという畜生の道。昨日までは仲間、今日からは敵という修羅の道。人の話しを聞いているようで、実は自分が一番正しいと思い込んでいる人の道。一時的に舞い上がって喜ぶが、現実に戻ると途端に落ち込んでしまう天の道。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天。
 私は、いま一体どの道を歩んでいるのだろうか。連日報道される痛ましい事件や呆れる不祥事の数々。気が付くと、私が次に踏み出す一歩前に、すでに六道交差点が入り乱れている。知らず知らずのうちに、道に迷う。
 迷子になれば、親に助けられる。しかし今、大人の迷子が増えている。その迷子を一体誰が見つけて誰が手を差し伸べてくれるのだろうか。親鸞聖人は750 年の時を越えて、「道はここにありますぞ」と、姿を変えて私の前にお出まし下さる。その姿は、お佛壇のお荘厳となり、正信偈の読経となり、お念佛の声となる。 手を合わせる生活の中に、如来大悲の確かなぬくもりを感じるのである。

法務員 稻垣心平

17-01

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