連載シリーズ 親鸞さまの里 2

投稿日:2016年9月1日

 親鸞さまは六十歳を過ぎて、常陸から京都へお戻りになられたという。残された弟子たちはそれぞれの地域の道場や寺に集まり、信心を守り発展させていった。指導者となったのが面授の弟子(直弟)たちであり、やがて『二十四輩』という名称が生まれる。二十四輩とは、大まかに言えば有力弟子二十四人という意味であり、それぞれの寺で布教伝導に励んだのである。枕石寺もまた二十四輩の寺の一つである。
 現在、浄土真宗では自らを一向宗とは言わないが、幾百年もの長い間をこの地方では、そんな呼び方が一般的であった。老人たちの会話には、今でもそんな言い方に違和感はなく、葬儀や年中行事などでも、どこか他の宗派の家とは異なるものがあった。
 例えば葬儀に先立って個人の茶碗を割るとか、棺を回して自宅を出るとか、釘を石で打って棺を閉じるという、そんな習俗はない。ただ、「死は穢れ」という考え方から、清めの塩の風習は後々まで続いていた。このことが無くなったのは、そう古いことではない。私の母の葬儀は昭和六十三年、土葬の葬法でであった。清めの塩を使わないということに対して、「清め塩を使わない葬儀には出られない」と言って、集落の有力者が憤然として席を立ったということを聞かされたものである。
 また、年中行事についても、こんな記憶が残されている。一向宗の私の家では、節分の豆撒きの行事はなかった。「福は内、鬼は外」の声に、限りない羨望の聞き耳を立てて滅入っていたものである。次の日の「綴方」の課題は豆撒きであった。「私の家の中は時を刻む時計の音だけが・・・・」と書いた作文を、皆の前で読まされた。静かさと淋しさを時計の音で表現したことが良いというのである。作文などで誉められたことなどなかったので、それ以後作文などの類いに熱中するようになった。
 しかし、一向宗の家庭にも神棚があり、屋敷の一隅には氏神様の祠があった。火葬は佛教の葬法であり、この地では土葬の葬法が後々まで行われていた。藩政時代の火葬禁止令の残滓である。
 ところで立教の聖典『教行信証』が書かれたのは、稲田の草庵であるとされているが、ここから布教伝導に出かける親鸞さまを、機会があれば殺害しようと企てていたのが山伏弁円であった。しかし、教えに服して弟子となり、名を明法と改めて、一つの寺(上宮寺)を創建した。
 毎年の報恩講の夕べに聞く『御伝抄』のなかの、あの方なのである。この寺もまた二十四輩の一寺であり、私の家の手次の寺である。
 土葬の墓所はすでにコンクリートに改められ、かつての面影はない。ただ、享保や文政と刻まれた苔むした小さな墓石だけが、吹く風の夕景のなかに、土葬の昔を懐かしむように、ちんまりと建っている。

釋彰響(鈴木 彰)

27-01
写真 平成12年11月
眞願寺団体参拝旅行で訪れた板敷山大覚寺様 前列左より二人目筆者

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