あるご法事にお参りした時のことです。お母様の七回忌ということでしたが、お勤めを始める直前になって、施主さんから「おやじの供養もしたいので、おやじの分のお経も上げてやって下さい」と言われたのです。「おやじの分と言われても、お経はそんな意味であげるのではないのですよ」とご説明したのですが、どうも通じなかったようです。
またこんなことを言う方もありました。「父の命日にはお寺さんにお参りしてもらっていていいのですが、祖父の命日には参ってもらっていません。おじいちゃん、かわいそうじゃないですか…?」どうやら、これらの方は「お経は先祖のために上げる」と、思っているようです。《故人に対して読経の功徳をさし向ける》という認識です。
しかし、浄土真宗で行う読経はそうした故人への《追善回向(ついぜんえこう)》ではありません。阿弥陀如来のお徳を讃え(佛徳讃嘆・ぶっとくさんだん)そのご恩に感謝する(報恩感謝・ほうおんかんしゃ)行為なのです。
法事でよくお勤めされるのは《佛説無量寿経・ぶっせつむりょうじゅきょう》上下巻、《佛説観無量寿経・
》、《佛説阿弥陀経・ 》からなる『浄土三部経』で、浄土真宗のみ教えの根源となる大切なお経です。いずれもお釈迦様が《阿弥陀如来の間違いのないお念佛を信じて救われてくれ》と、私たち凡夫にお説き下さったものであり、『正信偈 』など他のお聖教も阿弥陀如来のお救いを讃えてあるものです。したがって、「お経を上げる」ということは、ほかならぬ私たち自身がお念仏のみ教えを聞き慶ぶことであり、阿弥陀如来様のお徳を讃えてそのご恩に感謝することであるのです。「誰それの為の読経」というようなことではなく、『故人を縁として、私自身がいただく読経』といえるでしょう。