語り継ぐ樺太アイヌ強制移住『対雁の碑』 6月13日一般公開講演会報告

6月13日、一般公開御堂講演会が行われました。テーマは『江別の対雁の碑~樺太アイヌ強制移住と疫病の真実~』と題し樺太アイヌ協会副会長の楢木貴美子さんにご講演いただきました。

 

開場時間前に並ばれた方もおいでになられました

6月10日の北海道新聞朝刊には当日のご案内と「語り継ぐ樺太アイヌ強制移住」と題して歴史的な内容や写真が大きく掲載されました。江別に住んでいながらこの事実を知らない方も多かったのでしょう。

問い合わせの電話もたくさんいただきました。コロナ禍の緊急事態宣言発令中と言うこともあり、本堂40名第二会場30名と来場者制限をし、当日は13:30開場14:00開演として整理券を配布、境内に並ばれることを想定し、ベンチを設置しました。

眞願寺いちょう会(連研履修者の会)の皆さんにも受付・開場・案内・検温などご奉仕いただき本当にありがとうございました。お陰様でスムーズにお越しいただいた方をご案内する事ができました。

第二会場(広間)の様子

第一部では「樺太アイヌ強制移住の歴史とコロナ禍の現代を語る~眞願寺との繋がり~」と題して、先ずは住職より歴史的な事実と眞願寺とのご縁につき説明の後、樺太アイヌ協会副会長でもあられる御講師の楢木貴美子さんにお話しいただきました。日本とロシアの国の都合により、南樺太に居住されてきた樺太アイヌ(エンチュウ)の方々が、どれだけ大変な移住を強いられてきたか、聞き伝えられてきたことや、戦後の幼い頃から実体験を交え、詳しくお話しいただきました。

講演を聞かれている方々の中には、目頭を押さえながらうなずいている方もおられました。貴重な苦難の歴史を聞くことができて本当に良かったと思います。是非当日の模様は過去動画よりご覧ください。

第二部は、「樺太アイヌの文化 歌と楽器演奏~カーニムックンとトンコリの世界~」と題し続いて楢木貴美子さんにお話しいただきました。アイヌにも北海道アイヌ・樺太アイヌ・千島アイヌ・東北アイヌの方々がおられ、それぞれ異なった文化が伝えられてきたことを説明いただきました。振り返れば、19世紀当初から20世紀後半まで、日本の中央政権は、アイヌ民族に対し同化政策の名のもと、言葉や文化を奪ってきました。私もその一人であったことをあらためて痛感しました。樺太アイヌのカーニムックンやトンコリの演奏、そして素晴らしい歌を聞かさせていただき、この本堂で演奏していただけたことをあらためて感動いたしました。

 

講演が終わると伝統衣装のテタラベやトンコリを実際に手に取り、試着もさせていただきました。こられた皆さんも楢木さんの説明を聞きながら、興味深くご覧になっていました。

 

差別や偏見の中で大変なおもいをされこられたアイヌの方々の中で、強制的に移住を強いられてこられた悲惨な事実と今だ大きな遺骨問題を抱ておられる方々がおられることを、多くの方に伝えていくのは、眞願寺の大切な役割と思っております。

普段は眞願寺総合玄関付近に掲示されています

楢木貴美子さんのあたたかなお人柄と、素晴らしい笑顔のなかで、心を込めて語っていただけたことは、本当に嬉しく感動いたしました。心より感謝申し上げます。

最後に住職より色紙がプレゼントされました。

当日の模様はHP右上の過去動画よりご覧ください。

 

参加されたかたよりいただいた絵手紙を紹介します。

 

樺太アイヌ強制移住の歴史と眞願寺との繋がり(概略)

樺太(サハリン)は、南部には樺太アイヌ(樺太アイヌ語でエンチウ)が住み、中・北部にはウィルタ、ニヴフ(ギリヤーク)が住み、それぞれ漁狩猟や交易を営んでいました。
18世紀半ば頃から樺太や千島にも、松前藩や和人の商人層(伊達家、栖原家等)が、シベリアからはロシアの業者(セメノフ・デンビー商会等)が進出してきて、アイヌと交易し、また労働力として雇用・使役するようになりました。
幕末期に、江戸幕府と帝政ロシアとの間で交渉が行われ、1855年「日露和親条約」及び、1867年の「樺太島仮規則五箇条」で、樺太は「日本人とロシア人の雑居地」とされました(北千島はロシア領、南千島は日本領)。この段階では樺太は「雑居地」であり、日本でもロシアの領土でもありませんでした。
明治維新後の1875年(M8)、日本政府とロシア政府との間に「樺太・千島交換条約」が結ばれました。北千島を含む千島列島をすべて「日本領」とする代わりに、それまで日本人とロシア人の「雑居地」だった樺太をロシア領としました。

それを機に、樺太アイヌのうち841人は、北海道の宗谷を経て、石狩平野の海岸から遠く離れた対雁に強制移住させられました。(現在の対雁榎本公園河川敷付近と石狩川の川底になっていると思われます。)政府の特命全権公使である榎本武揚は条約に調印し、対雁に所有していた10万坪の土地に、漁業に慣れ親しんでいた樺太アイヌを一方的に移住させ「農民化」しようとしました。しかし様々な悪条件の中で、不慣れな生活の中で栄養状態も悪化し、多くの人が健康を害していきました。
移住3年目、元々漁労民である彼らは不慣れな農業を捨てて漁業を求めて厚田や石狩の礼札の浜に移るようになっていきました。

1882年(M15)、生活困窮し動揺の大きい移民を見て、樺太移民救済組合長の上野正や本州より移民した心の拠り所として寺院を求めた真宗門徒の安孫子助右エ門らが相図り、札幌に公称設置され間もない本願寺札幌別院に説教所の開設を求めました。
その結果、1884年(M17)対雁一番地共済組合事務所付近に、「対江説教所」として仮の同宇を建て開設され、2年後には墓地に隣接する「廣間」と称される土地に堂宇が建てられました。山号の「廣間山」の由来はここから来たようです。
その当時本願寺札幌別院より御本尊として下付されたのが、蓮如上人御真筆六字名号であったと考えられています。

そうした中、1886年(M19)から1887年(M20)にかけて全道的に流行ていたコレラと天然痘も窮屈な生活を余儀なくされていた樺太アイヌにも感染し、厚田や石狩の礼札の浜など含め約半数である351人が亡くなる悲劇が起きました。
樺太アイヌの方々は、対雁に移住されまもなく、墳墓の場所を対雁の丘とすることを開拓使に求め、そこが墳墓の地となっていました。各地で犠牲となられた方々も、この墳墓に埋葬され、開教間もない対江説教所が葬儀・追悼の儀式を一手に引き受け、行って参りました。すべての方に浄土真宗の「法名が」授けられ、俗名(樺太アイヌ名)と命日が、に一人一人丁寧に書かれ、一冊の過去帳として現在も大切に保管されています。

現在、毎年6月第三土曜日午後2時、対雁の墓地(江別市やすらぎ苑)の「対雁の碑(ついしかりのいしびぶみ)」で樺太強制移住殉難者墓前法要がご縁深い眞願寺住職の導師により修行され、有縁の方々とご一緒に心をよせ、真の平和の現実を願いつつお参りしています。

「対雁の碑」は、救済組合長の上野正は総墓碑を建てるために、1887年(M20)8月、北海道を御順教中であった本願寺第22世宗主明如上人に碑字下付を願い出られました。その願いが御認許になり、御染筆『乗佛本願生彼國』の七字が刻まれ、1890年(M23)11月に眞願寺境内に建てられました。翌1891年(M24)8月8日「対雁の碑」の建碑法要が多くの僧侶の読経の中、救済組合長の上野正はじめ樺太アイヌの方々、そして本州より移民されてきた方々が参列する中で行われました。(写真)
『乗佛本願生彼國』とは、「仏の本願に乗じてかの国に生ぜん」であり、何があろうとも必ず救うぞという阿弥陀如来の誓いにすべておまかせすれば、さとりの世界である浄土に往生させていただけると言う意味です。

 1905年(M38)、日露戦争後の「日露講和条約」により南樺太が日本領となると、樺太アイヌの多くは、かつての故郷である樺太に帰っていきました。また、アイヌ以外の日本人の多くも南樺太に移住しました。
1945年、アジア太平洋戦争の敗戦で、樺太、千島はソ連に占領され、樺太はソビエト連邦(現ロシア)の領土となりました。樺太アイヌの人々は、またもや北海道に移住を強いられました。彼らの多くは「稚咲内」(ワカサカナイ=アイヌ語で「水の飲めない川」の意)という原野に村を作って、苦労しながら助け合って住むようになりました。以来樺太アイヌの多くの人々は、様々なご労苦を経て今日に至られています。

1961年(S36)から翌年にかけ北海道電力火力発電所建設工事があり、墓地に隣接する丘を崩した時、大量の人骨が出土しました。また1964年(S39)に大雨が続き、墓地の一部で土砂が流出し、樺太アイヌ墓地付近の表土が崩れ大量の人骨があらわれました。
その結果御遺骨多数が研究目的という名目で発掘され、現在も北海道大学などで保管されています。遺骨の返還と故郷樺太への埋葬を大学や国に求めていますが、今日解決には至っておりません。

国および発掘し遺骨を保管している大学、そして発掘に携わった江別市は、遺骨の一日も早い返還に尽力され、江別やすらぎ苑にある老朽化した「対雁の碑」の修復と説明文などの掲示を含め後世に伝えられるものを考えていただきたいと思います。
そして、広くこの事実を市民に知っていいただき、未だ国と国の権力の中、領土問題で苦しんでいる世界中の難民の方々に心をよせて、真の平和をこの対雁より発信して行ければと思います。

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