お陰様で HIBIKI 響 50号

投稿日:2021年9月29日

 創刊号の住職の挨拶には「めまぐるしく発達する医療や科学の背景では、公害や汚染による環境破壊がさわがれ、数えきれない社会問題が山積されています。
 21世紀に向かって一番大切なことはこの自身をまずふりかえり、見つめさせていただくことではないでしょうか。門信徒の皆様とともに、みほとけの教えをいただき、自分を見つめることによって『できることから始めよう』を見いだしていきたいものです。
 この寺報がそんなきっかけになればと念願いたします。」と書かれています。


創刊号はB5版で白黒印刷12ページでした。


本願寺新報平成11年5月20日号の一面に紹介されました。

眞願寺さま寺報「響」50 号の記念発行によせて

北海道教区教務所長 沙々木 学海

 一つの物事が25年継続されるということはよほどのことであります。
 眞願寺さまの寺報「響」が平成9年3月創刊から本年9月発行で50号となりますことをお伺いいたしました。創刊から今日までの25年間の年月には、ご住職さまをはじめとして、多くのご門徒さまが携わってこられた中、進化と発展を遂げられてこられたと拝察いたします。
 寺報の名であります「響」という文字は郷と音を合わせた文字であります。郷という文字は“向き合う”という意味を持ち、音という文字は“心の奥に響く強さ、目に見えない支援や影響”という意味があるそうです。向き合い、そして心の奥に響き、目には見えない支援や影響という意味をもつ「響」という文字は、私たちの宗門の理念であります“あらゆる人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝え、もって自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する”ということに相通ずる文字ではなかろうかと思っております。
 50号の記念号の発刊を迎え、み教えが十方に響くようにとの願いから「響」と命名された創刊時の願いを全ての方々が共鳴し、眞願寺さまが更なるご隆盛いたされますことを念じ上げる次第であります。合掌

眞願寺寺報「響」第50号発刊にあたり

札幌組副委員長 厚別区 安楽寺住職 横湯 誓之

 寺内の皆様、ご門徒の皆様、そして眞願寺様を支えておられる関係者の皆様、今年は本当に暑いお盆でしたね。コロナウイルス感染症の心配もあり、暑くてもマスクを外せないもどかしさに支配されながらお盆を迎えられたことと思います。引き続き感染対策を講じながら、ご自愛いただきたいと思います。 
 さて、お盆まいりがスタートしてまもなく、眞願寺ご住職から、「あのさあ、うちもよく考えたら寺報が50号目を迎えるんだよねー、一筆書いてくれない?お返しに!」とご連絡がありました。実は私どものお寺の寺報も節目の50 号目を迎え、相焼香であり、現在札幌組の組長さんでもある眞願寺ご住職様に、「べた褒め」のお祝いの文章をお書きいただき、それを掲載しお盆のおまいりの際にご門徒の皆様へお届けしておりました。お返しにというのはそういうことなのですが、この度は読み手としてではなく、寺報の作り手としてお祝いの言葉を述べさせていただきたいと思います。
 あらためまして、眞願寺寺報「響」第50 号発刊誠におめでとうございます!
 ご住職様が平成6 年に第5 世住職を継職されてからの念願であった寺報作成。25年の時を経てこの大きな節目を迎えられました。御住職様をはじめこの寺報作成に関わられた皆様のご尽力により、この寺報「響」が「お寺とご門徒を繋ぐ心の架け橋」となっているのは間違いの無い事実であります。
 発刊以前は、正直、ご門徒様の立場から考えますと、なかなかお寺の内部が伝わりにくい、よっぽど昔からのご門徒であるとか、お寺の教化団体に所属しているとか、普段からお寺に出入りをしているというご門徒さんではない限り、なかなかお寺の深いところまでは知るよしもなかったと思います。それをいち早く情報を開示し、「一人のご門徒も取り残さない」という思いが伝わる素晴らしい寺報が、眞願寺様の「響」であります。
 お寺の行事報告はもちろんのこと、各教化団体(婦人会、壮年会など)の活動報告や、ご門徒様のペット自慢などの様々なコーナー、読み手を飽きさせない努力と工夫を凝らしておられます。この読み手を飽きさせないという所が、作り手として一番神経を使うところではないかと、ご住職様と同じ作り手の立場としてここまで寺報を作成してきた者として共感するところであります。やはり同じことをズーッとやっていくと必ず「マンネリ」というものにぶつかります。これは仕方が無いことではありますが、そこに作り手として一番の、「苦しみ」を味わうところではありますが、そこを打破していくのは、常に「アンテナ」を張るというところが大事なんではないかと長い年月を掛けて気づいたところであります。
 ご住職も常にこの「アンテナ」を張り、寺内はもとより札幌組、北海道教区の為にご尽力をいただいております。今後も忙しさに負けずに誌面の充実をお図りいただき、寺報「響」がより一層「お寺とご門徒を繋ぐ心の架け橋」になることを願い、大なる節目「第50号」発刊にあたってのお祝いの言葉とさせていただきます。この度は誠におめでとうございました!                       合 掌

眞願寺寺報『響』 50号 おめでとうございます。

茂尻常照寺 住職 佐々木 重昭

 眞願寺さんと私のご縁は、やはり音楽が始まりでした。確か今から約40 数年前、前住職様がご健在の時でした。石堂家の長女悟江さんが私たちのフォークバンドのファンクラブの会員だったご縁で、木造造りの本堂でライブを開催。当時は今と違って、本堂でのライブは世間からは認知されていませんでした。
 本堂でのライブ、本当に大丈夫?メンバー全員かなり遠慮気味にコンサートの幕が開いた。
ところが、前住職、坊守さん、ご寺族始め、来場者全員が温かい眼差しで手拍子を打って私たちを迎えて頂きました。コンサートが終わり、前住職さんが私に言った言葉「お寺はご門徒さんや地域の方々の公共の場」「これを機に本堂でのコンサート、積極的にやりなさい」と。
 寺報『響』は毎回毎回ご門徒さまを中心とした写真が掲載され、法要、コンサート、対談、子供食堂等々、ご門徒さんはもとより、子供たち、地域の方、大学生の方々の笑顔でページが埋め尽くされていることに、前住職さまの願いがそこに綴られているような気がします。
   伝えるのではなく、どうしたら伝わるのか・・・
      必死になって模索し続ける鼓動が感じられる『響』
        また、いつもの通り私の手元に送られてくることに なんまんだぶつ

眞願寺寺報『響』第50 号へ寄稿

石狩光明寺住職、元眞願寺法務員 西井 正了

 私が眞願寺さんで法務員として勤務していた頃、寺報発行の時期が近付くと住職さんから記事原稿が上がる度に校正を指示され、汗をかきかき一字一句に目を通したものです。(それでも多々見逃しがあったが)
 その為製本納入された寺報を見てもデジャヴのごとく既に知っている内容で、「へ~ こういう寺報が出来たのか」といった新鮮味は感じられなかったことが一番に思い出されます。
 お寺が発行する機関誌のイメージは、「読め!」と言わんばかりに仏教や真宗のみ教えが滔々と書かれ、予備知識が無いと完読も辛くなるようなものが多いように思えますが、眞願寺寺報はみ教えや報告事項等お寺側からの発信がある一方、団体参拝旅行記やペット紹介等ご門徒側からの発信もあり、肩肘張らずに読めるのが寺報「響」の特徴であると思えます。
 拙院(光明寺)のことで恐縮ですが、住職継職後より「光明寺寺報」を発刊刊行させていただいていますが、そのスタイルは巻頭に拙僧(筆者)の法話、感話に加え大きく写真が掲載されどこか眞願寺さんの寺報に似ていることをご報告申し上げます。
 どれだけのご門徒が目を通してくれるか無い知恵を絞り寺報作成していますが、時折幾人のご門徒から感想の声を戴くことがあり、そのお声掛けが継続の励みとなっております。
 最後になりますが、眞願寺寺報第51号を楽しみに筆(マウス?)を置かせていただきます。

『響』祝50号

明西寺前坊守 佐々木 京子


 多くの方々のご協力のもとに、50 号を迎えられましたことを、心よりお喜び申し上げます。眞願寺さま・寺族の方々・ご門徒の方々のお喜びはひとしおのことと思います。
 50 号までの流れは、お寺の歴史でもあります。その歴史にきざまれているように、この眞願寺さまはご門徒の方々のお寺であると同時に、地域に根ざした地域のお寺でもあることが記されています。
 このコロナのご時世でもありますが、今後より一層にご門徒の方々に、そして地域に広くこの寺報がひびいて『響いて』いかれますように願い、お祝いとさせて頂きます。合掌

眞願寺の皆様ボアタルジ!(こんにちわ!)

プレジデンテ・プルデンテ本願寺 御幸 断


 この度は寺報「響」の発刊50号おめでとうございます!2008年から2014年の間、法務員としてお世話になりました御幸断です。当時22歳、僧侶として未熟でしたが、ご住職、坊守様をはじめご門徒の皆様に温かくお育て頂きましたこと、この場を借りて改めて御礼申し上げます。
 現在、34歳ブラジルに赴任して4年経ちましたが未だ独身、早くブラジル人美女と結婚したいなと妄想するばかりの日々です。
 南米の本願寺は40ヵ寺あって、およそ3年~10年の駐在で別のお寺へ転勤していく仕組みです。昨年ツパン本願寺からプレジデンテ・プルデンテ本願寺へ異動しました。ここプレジデンテ・プルデンテの街は都心のサンパウロから約600km離れた奥地に位置し人口は25万人です。1952年、19名の日本人移民を中心に仏教会が発足され、現在、約250家族のご門徒がおられます。2022年には寺院建立70周年慶讃法要を予定しています。
 お寺の敷地は大きくて本堂は100人、会館には1000人収容できます。また子供用の公園やフットサルコートもあります。
 現在コロナ禍の為、法要・法事の際に集まっていい人数は50人程度に制限されていますが、それ以前は100人集まることは日常的で、多い時には500人も法事に集まったそうです。
 ほかの活動として、日本語学校、日曜学校、朝の体操、青年会のダンス教室やスポーツ大会、壮年会のシュハスコ=焼き肉、うどん会、やきそば会、餅つき会などがあります。日系人だけでなくブラジル人にも参加して頂いています。
 お寺にお参りに来る人は高齢者が多いのでまだ日本語での法話が求められますが、難しい言葉は使えません。なるべく日常語を使ってわかりやすく、噛み砕いて伝える事が重要に感じます。しかし、日本語を理解できる人はおおよそ70代~80代の方々で、50代~60代になると厳しくなってきますし、それ以下になるとほぼ無理です。今後はポルトガル語での布教が課題です。
 開教使といっても、実際には開教どころか、今あるお寺をつぶさないように、門徒さんを減らさないよう維持するのに精一杯で、開教までできていないのが現状ですが、その中でもご縁をいただいた方にお念仏のすばらしさを伝えていけるよう努めていきたいと思っています。
 最後にフェイスブックでお朝事の様子を毎日7:00(日本時間19:00)からライブ配信ていますのでよろしければご覧くださいませ!!眞願寺様のお念仏繁盛、心よりお慶び申し上げます。合掌 (Facebook内で検索→Templo Honpa Hongwanji De Presidente Prudente

了正さんと私

明西寺衆徒 池田 佳春


 東京の目黒に住んでいた私は、両親と同居する為、現在のこの地、調布へ引越しをしました。当時、息子2人がボーイスカウト活動を続ける為、明西寺ボーイスカウト第9団に入団した事が御縁で了正さんと出会いました。了正さんはまだ学生さんでした。知り合って40年近くが過ぎました。
 私は明西寺様のおかげで平成9年に得度し僧侶となり、仕事をもちながら法務のお手伝いをさせていただきました。得度の際も了正さんは、以前に京都の本願寺西山別院に勤められた関係から、大変気にかけていただいたことでした。了正さんはその後、眞願寺様へ入寺され多忙な時期をこちらから拝察しておりました。
 眞願寺の寺報「響」が創刊以来50号との事。お忙しい中、年2回の発行はせわしなかったと思います。響は創刊以来、ご門徒さんに寺の事を写真を通して分かりやすく伝えて下さっていると感じております。私は衆徒の鈴木さんの編集後記も楽しみでした。
 私は何度か眞願寺様に伺い、その際お酒を頂きながら色々と教えて下さいました。又ある時は大好きなおいしい鮮魚があるからと自身でさばかれ、お酒を飲みながらその刺身を美味しく頂きました。が翌日、了正さんはアニサキス( 魚にいる寄生虫) の為大変な苦しみ様だったとか。この私は何事もなく帰宅しました。そんな思い出がありました。 
 コロナ禍の中、お聴聞が儘ならなくなりましたが、眞願寺様の法話、ライブ配信で有難く参加をさせていただいてます。又、眞願寺様では、このコロナ禍で葬儀のお参りが不安な中、ライブで参加出来る様、配慮してくださっておることも伺いました。この様に、ご門徒のみなさんに寄り添うお寺。素晴らしいですね!

HIBIKI『響』50 号おめでとうございます

責任役員 安孫子 建雄


 HIBIKI『響』は平成9年3月(1997年)より創刊し今回50回を迎えたことは素晴らしいことと喜び、編集に関わられた責任者のご住職はじめ皆様に感謝申し上げます。
原稿のご依頼を受け、過去の「響」を早送りで目を通してみました。
その結果たくさんの驚きと感激を味わいました。
 25年前からのお寺をめぐる皆さんの歴史が綴られており、「眞願寺アーカイブ(長期保管)」と言えるものになりました。掲載されている写真を見て月日の経過をつくづく感じました。
私たちの眞願寺は平成5年から本堂の改築をはじめ、新住職を迎え新たなお寺の準備に大忙しの数年の後、平成8年2月仏教壮年会を発足させ翌年3月『響』を発刊することとなりました。
 多くの門信徒さまとお寺をつなげる役割を婦人会・壮年会そして寺報が担うことになります。壮年会は若い人にお寺へ足を運んでもらおうと考え様々勉強を重ねました。単行本「仏事のイロハ」をみんなで読み、改めて浄土真宗の教義に触れ行事作法を知り門信徒としての姿を目指してまいりました。
 そんな中『響』は活動を記録し、広く門信徒の皆さんに様子を伝える力になったのです。
改めて広報の大切さを実感するところであります。
 『響』は一人の響きから、大勢の人々が交わる響き交響へと広がり、心が「ほっとする」世界につながることを願います。

寺報「響」創刊50号に寄せて

衆徒 釋 彰 響(鈴木 彰)


 「寺報を発行したい」と言う若かりし頃の住職の決意を知り平成9(1997)年3月に創刊できました。住職の巻頭言は“変わることのないみほとけのぬくもりに出合わさせていただいた、わたくしたちのこころの窓「響・HIBIKI」です”と述べています。私は編集後記に“より身近な紙面にするべく編集陣はがんばります”と決意を記しました。
 年に2回の発行に向けた編集に携わりながら、編集後記の他に住職からのお話を頂きいろいろと書かせて頂きました。
 親鸞聖人750回大遠忌を迎えるに当たり、住職から親鸞聖人について執筆の話をいただきました。私は親鸞様ゆかりの稲田の近在で生まれました。この地は、史実や伝説綯い交ぜて多くのことが語り継がれています。能力の無い私ですが、自分の生まれた地の潜在的な力が書かせてくれたと思っています。
 第45号(平成31年3月発行)を最後に編集から退きました。同号に本山御正忌法要に出勤する住職と継嗣の郭成さん、成人式を迎えた礼華さんの写真が掲載されています。私が眞願寺の僧となった頃、郭成くんは3歳でした。時に見せる反抗期の童顔を懐かしく思い出します。中学生になった頃には私の背丈を越えていました。礼華ちゃんの成人と今や立派になられた2人を見て、年月の経過を再認識し区切りを付けることができました。ご縁を頂いた全ての皆様に深く感謝申し上げます。
 お寺に通っていた頃に詠んだもので、寺報40号に掲載頂きました。
    お寺より戻れる夫は布袍のまま犬小屋に犬の顔をなでゐたり
    石狩の野を走り来て夕景のミュンヘン大橋渡れば住み処
 齢93歳になりお寺への足もすっかり遠のきましたが、当時を懐かしみつつ心穏やかに過ごしています。
 末尾になりましたが、寺報50号発刊を心よりお喜び申し上げますとともに、更なる護持発展を御祈念申し上げます。合掌

寺報『響』編集作業の思い出

門徒 堀川 美代子


 私が寺報『響』の編集作業に携わりましたのは、第28号(2010年9月発行)から第30号(2011年9月発行)までの短い期間でした。この当時のことをあらためて振り返ってみますと、私が担当した主な作業は、ワープロソフトMicrosoft(マイクロソフト)Word(ワード)での文章と写真のレイアウトでしたが、第28号と第29号では畏れ多くも自分の言葉で原稿も執筆しました。住職に初校原稿を確認していただき、即OKサインが出た時にはホッと胸をなでおろしたものです。また、寺報の編集作業には幾つかの決まり事があり、私が一番記憶しているのは、漢字の「仏」を「佛」へ統一することです。そして、編集作業は寺報発行までハードスケジュールだったと記憶していますが(記憶違いでしたら申し訳ありません汗)、自主的に夜通し朝方まで編集作業を行い、お寺に原稿を届けてから出勤したこともありました。あの頃は今と違って気力と体力が充実していた証拠ですね(苦笑)。
 寺報の編集作業に携われなくなってから久しいですが、寺報は毎号欠かさず拝読しています。今ではホームページのみならず、Facebook(フェイスブック)やInstagram(インスタグラム)、YouTube(ユーチューブ)のライブ配信など新しいものも取り入れられて、お寺の真摯な姿勢には深く敬服いたしております。
 最後に、寺報『響』が幾久しく発行されますよう謹んでお念じ申し上げます。合掌

響50号によせて

衆徒 釋 廓 成 (石堂 郭成)


 久しくご無沙汰しております。この度、「響」が発行し25年が経ちました。
 当時の私自身の事はほとんど記憶に無いのですが、「僕、太陽を食べるんだ!」と口ずさみながら、机の上で飛び跳ね、窓から見える太陽を掴もうとしていたのは覚えています。
 我ながらピュアな愛嬌のある子。勿論、今でも健在してます。
 そんな私は今、大阪の善宗寺というお寺でお世話になっております。法務員とし学ばせてもらっている日々の中、コロナ禍になり一つ気づいたことがありました。相手の目を見て話しても、仕草で表現しても、マスク一枚あるだけで対面してる方がどう思っているか感じ取りづらい。伝えたい事が伝わりづらい。人間って表情で相手を読み取るのが一番優先的なんです。
 届きそうで中々届かないマスクなしの生活。厳しい世の中ですが、普段気付くことのない事に改めて気付かさせて頂いた私もいました。
 マスクせず透明なガラスを無くし、愛嬌を振り撒きながら、表情で感じていただける日々が帰ってくることを信じ、天下の台所で研鑽する今日で御座います。
 御自愛専一にお過ごし下さい。

「感謝」

眞願寺住職 発行責任者 釋 了 正(石堂了正)


 寺報「響」は、平成9(1997)年3月1日創刊し毎年3月と9月の年2回発行してきました。お陰様で25年間続き今号で50号となりました。
心より感謝申し上げます。
 昭和62(1987)年に前住職が往生されました。寺族は娘5人と坊守が残され、悲しみに包まれておりました。同時に老朽化し雨漏りの激しかった木造の本堂をどうするか苦境に立たされていました。門信徒から是非後世に残せる立派なご本堂を新築しようと声が上がり、納骨堂を含めた鉄筋コンクリート造り2層建に着手しました。門信徒皆様より浄財を賜る中、平成5年夏に前住職7回忌に合わせ本堂の解体法要が行われ、建築が始まりました。
 時を同じくして、不思議なご縁をいただき、本堂建築中の平成6年2月に結婚入寺いたしました。同年10月には本堂落成法要と住職継職法要が行われ、門信徒皆様が歓喜の中で慶んでいただきました。
 若輩31歳で結婚入寺そしてすぐに住職を拝命、浅学菲才な私でしたが門信徒皆様に温かく迎えていただきました。新住職に大きな期待を頂く中で、何か出来るか試行錯誤しました。
 本堂落成法要と住職継職法要の法要委員会で出来た繋がりを会にして住職を盛り上げようと壮年会を発会していただきました。又、納骨堂の新築に会わせて位牌の撤廃と過去帳の推進を徹底しご自宅のお仏壇にも過去帳をおすすめしました。
 ご案内やお勧め、一番大切なみ教えを御門徒にきちんと伝えることが出来るか考え、できるだけ親しみやすい寺報を発行する事にいたました。み法が十方に響いてほしいと願い、「響」と命名しました。
 主旨を理解し、一緒に編集から携わってくださった門徒の方が3名おられ、本当に助かりました。その方は一人が僧侶に、二人(夫婦)は門徒推進委員となられました。
 宗派でも、蓮如上人500回忌の折りに御門主より文章伝道の大切さを発信されていましたので、宗報からも原稿依頼があり、平成11年6月号に掲載されました。また本願寺新報でも一面に紹介されたこともありました。(本ページ上部参照)
 以来、鏡には短い住職の法話、各号で特集を組み、護持会会計の収支予算決算、行事予定、行事報告や案内、御門徒からの投書やトピックス、ペット紹介、坊守コーナー、法務員コーナーなどを掲載しています。
 近年では情報社会に対応して、平成15(2003)年4月よりHPをはじめ、文章伝道と画像や動画による配信もはじめました。その積み重ねてきたことが、現在のコロナ禍に即応して、令和2(2020)年6月より法要行事のInstagramやYouTubeにてライブ配信を行えるようになり現在に至っています。
 毎回発行のひと月前に思うことは、私の文才のなさと編集の大変さを感じるばかりであります。しかし、そんな私の右手となっていつも助けてくださっている歴代の編集員の皆さんに、心より感謝を申し上げます。特に創刊より20年間お世話になった衆徒の鈴木彰様、本当にありがとうございました。そしてその後を引き継いで自ら編集に携わってくださっている総代の石垣巧様今後とも宜しくお願い申し上げます。
 これからも寺報「響」をより良く親しんでいただけるよう、取り組んで参ります。皆様からのご意見、そして心温まる投稿も宜しくお願い申し上げます。       称名


平成18年 響19号に掲載された写真(職員を紹介する住職)

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